昭和41年03月27日 朝の御理解
今日、二十七日十時 三井教会に於いて、筑水教会信徒連合会信心共励会が開かれますから お繰り合わせご参集下さいますようお知らせ致します。当日は筑水連合会内二十二教会から、多数の信者方が集まられ、信心感話発表が行なわれますので、信心の展開、向上の上に非常に有意義であり、是非おかげを頂いて下さいと、これは三井教会から、連合会がございます。そのご通知、ご案内でございます。皆さんもなかなか熱心な御信者ばかりの集まりでございますから、いつも大変よいお話がございます。
椛目の者としましては、井の中の蛙でよそを知りませんから、よその雰囲気とか、よその教会の御信者方の信心ぶりと、言った様なものを信心を進めていくのに必要でないかと思います。どうか宜しくお願い致します。つきまして私昨夜、この事を神様にお届けさせて頂き願わしてもらっておりました。私共も参ります。それで丁度お願いさせて頂きよりましたら御心眼に頂きます事はね、見事そのな庭園の一部なのです。
そらいの植木が、その植木と大きな石とが実にマッチした所の釣り合いのとれたお庭の一部です。そういう情景を頂くのですよね。皆さんどういう事かと思いますか。まぁどちらがどっちでもそれはいいですけども、その石と木との釣り合いとか、又はマッチした釣り合うておるという事です。それは石そのものは動きません。石というものは年中だいたい据えたら、例えば三井教会なら三井教会という石は変わりません。石とは私は心だと思う。あの人は意志が強いと言った様に申しますでしょう、心が強い。
石とは私はいうなら三井教会の事だと思います。それに根元にこう植えられておる様々な木は椛目の事だろうと言う風に感じた。木は心と申しますから、いわゆる石と木、心と心とい結う風に思うておる。それが釣り合うておる、マッチしておるという事。どうでしょうか、この石が座っておる、その植木の方の手入れが年々出来てなく、伸び放題に伸びるという事になったら、石は隠れてしまったり又、釣り合いも取れない。折角の庭園が台無しになってしまいます。
ですから片一方の石、そのものを片一方の心そのものは育たなくても、動かなくても、こちら自体は絶えず生き生きと生きておらなければならない。勿論枯れたらいよいよおしまいですね。そうでしょうが、石にあしらってある、その庭園の植木がです、もう枯れたらおしまい。そんなら生き生きと、これが伸び放題にです、伸びたからというていいのではない。枝振りを曲げられたり、伸びすぎたから剪定されたり。
そして生き生きとした庭木がしておって、始めて庭木とその石との釣り合いが、一つの見事な庭園が出来る様なものなんです。ですから椛目の場合、その事を頂いてから、椛目の場合は、今度の場合は、この植木にあたるものだなあと、私は思うた。自分の木を曲げ、ある場合にはこれではいけん。曲げたり摘んだり同時に、根元の方には生き生きとした大地から吸い上げるところの養分を、十分に頂いていと言う事だなあと考えたのです。皆さん、この事をおわかりになったでしょうか。
この事は、私と善導寺、椛目と三井教会というだけの事ではありません。一事が万事そうなのです。家庭の中に於いても、社会生活に於いても同じなんです。お互いが生き生きとした信心をさせて頂き、生きた神様を対象としての信心生活、信心の稽古をさせて頂いているのでございすから、相手が変わらなくても、あっちがあっちだからと言った事でなくても、相手が変わらなくてもこちらが変わっていく、こちらが生き生きとしていく、こちらが曲げていく。こちらが剪定していくという事になって参ります時に。
社会の雰囲気も良くなりましょう。家庭の和もいよいよ保つ事が出来ましょう。友人関係も様々な人間関係に於いても、夫婦関係の上に於いても、親子関係の上に於いても、そう言う様な信心をさせて頂いておるもの。本気で自分という者を分からせてもらい、信心を分からせて頂こうと、本気で信心のお育てを頂きたいと願うものがです、そう言う風に変わっていかねばならないと思うのです。石、そのものが動かなくても、石そのものはどうでもいいのです。その周囲の植木そのものが変わっていけばよい。
昨日、善導寺の久保山先生の奥様が、その前の日に頂いておりました御理解に、前の晩に、婦人部会の晩でした。その御理解に短かき日だったかね、はきだす妻にたちにけり、かなんか、そうでしたかね、久保山さんそんなでしたかね。例えば短い秋の日のような日の事でしょうね。短い日、もう家内がバタバタしてから掃き出しておる。それにまあ座とったけど、立ったという様な意味の句なんです。
事についてから御理解頂いた。あれはどうも、私が頂かねばならんと思いますから、あした色紙を持ってくるから一言書いて下さいというてから、昨日持ってきてありまし。それで私は、それを頂きましてから書かせて頂こう思うてから、ここでお願いさせて頂きよりましたら、又頂く事がですね、爺々婆々の同じきせるに冬篭もりという句を頂きました。爺々と婆々が同じきせるで吸い合っておる事でしょう。寒いのですからコタツの中、同じ床の中にまだ起きらんでおる姿でしょう。
そして同じ一本のキセルで、交替でのんでいるという情景でしょう。たとえ爺々が変わらんでも婆々が変わらなくとも、只今頂きます御理解を頂いてからです、爺がたとえ石でありましても、婆々が石でありましても動かなくても、そのバックでありその根元にあるところの植木そのもの、のどちらかが生き生きと変わっていけば、これは必ず爺々婆々の中にです、同じキセルに冬篭もりと言った様な、なんともいえん雰囲気が家庭の中に生れてくると私思うのです。
これは爺々婆々の事だけではありません。今も申します社会のあらゆる人間関係、あらゆる親子関係、兄弟関係様々なそういう、人間関係の中に於いて、信心させて頂く者の側がです、変わればいいのです。相手の石が変わらなくてもここんところを、ひとつお互いが信心、むこうが変わらんなら、こっちがだが変わるかと、向うが向うならこっちもこっちといった様なものでなくてです、どこまでもこちらが生き生きと、しかも私がこの共励会の事を神様にお願いさせて頂きましたら。
そういうお知らせを下さるという事はです、いかにそういう事を、神様が願って求めてあるかという事が分かるじゃないですか。神様の願いに応える信心、神様があぁあってくれよと言って下さる、そういう状態に、こちらがなっていくところの、日々でなからなければならなりません。そういう意味で、今日はどうぞ午後二時か三時迄、四時位迄あるかもしれませんです。大変良いお話もございます、又そういう人達の雰囲気も作らなければなりません。
ですからどうぞ今日は日曜のことでもありますから、一寸でも顔出しをなさいますと、ずっとあちらで名前を控えられます。どこの教会は何十名お参りしたという様な事になるです、ですから皆様おいでなさいましたら、ここは三井教会になっておりますから、たとえば、三井教会の高芝なら高芝とサインする様になっとります。ですから、そうして一人、二人の方達のお話でもいいじゃないですか。特にあの会長のお話、平田さん当たりのお話はとてもよいお話なんです。どうぞお繰り合わせ頂いてから、お参り頂きますようにお願い致します。ね。
分かった事がいよいよ自分のものなるまでには、本気で信心させて頂いて、やはり十年経たなければほんなものでないと、私は思います。十年と信心が続いたら、我と我が心を奉れと仰るのは、そういう事なのです。十年間信心を続けておりますというだけでなくて、分かった事が自分のものになる。その事が私は我が心を奉れる事だと思う。神様の御都合と分かっているけど腹が立つ。神様の御都合と分かとって、心配があるという間は本当のものではない。
それがいつまでも、それが分かっただけで、本当のものでないという事がやっぱ実際にそれを行の上に表していかない。いわゆる信行一気になっていかないところから、それをいつまでも自分のものになっていかない。自分の心の血や肉にならない。分かっているけど自分のものにならない。それではさほど値打ちはないのです。そこでどうでもおかげ頂かにゃあならん。
先程ある方がいつも先生がいわれる「梅の香を桜にもたせ、しだれ柳に咲かせたい」あれは椛目の信心だという様な事をいわれるですけど、あれはどういう事ですか、と尋ねられた。やっぱりその方も十年から、信心を続けておられる熱心に続けておる人。説明が出来ませんでしたから、大体どげな事ですかとお伺いされるのです。考えてみると、そぎゃあな事がまだ分かっとらじゃったのと言いたいのですけど、やっぱりですね、それが分かっておっても、それが行の上に表されてなかったら説明も出来んです。
体験も生れてなかったり、体験がなかったらお話も出来んだろうと。皆さんどうでしょうか。椛目のこれは信心の一つの目指しであり、又それが理想郷だといわれておる様只今の様な事がです、どういう事ですかと聞かれても説明出来なかったとこういう。ですから本当にやはり分かってない事を尋ねなければいけません。それが自分のものになっていく為に、どうしても信と行が一つになっていかねばなりません。
例えば一日お参りさせて頂いて、波多野さんが、今日の御理解を頂いてから、今日こそこれに本気で取り組もうと取り組ませて頂いて、ほんに取り組んでいなかったら、困った結果になっていただろうと思う様な、体験を感じておられる様に、日々頂く御理解というものが、本当に行の上に表されていかなければ、頂く喜びもない楽しみもない、有難さもない。只参るだけ拝むだけ、只それを知っただけではつまらん。そういう例えば信心がです、十年と続いたら確かに大体自分のものになるのではなかろうか。
分かっている事が自分のものになる。自分のものになるところにです、私は信心する者の値打ちがあると思う。神様は一つのこれは筋の通ったというか、神様の心にすうと響くというか、そう言う様な一つの願いを立てますとです、必ず願いを聞き届けて下さる為の働きが始まる。これは絶対、例えば私が本気で親に孝行したい、親に安心してもらいたい。ですから親が亡くなったら、もうその翌日から元の木阿弥に戻ってもいいと言った様な願いを立てる、こうゆう願いは神様の心を動かしたに違いない。
それから起きてきた様々な問題というものがです、おかげを下さろうとする神様の働きであったと、それを私がです、しだごだに受けていったり信心するのにどうしてこんな事があったり、ただそれをお願いする事をです、通して信心は分かっているお願いしたことを通して、それが徳になっていくというおかげにならなくてはだめ。本当にその願いの筋が立派であれば、例えばですよ、例えば御造営なら御造営が始まった。
その為には、あらゆる意味で御用に立ちたい。こうゆう願いが神様の心を動かさないはずがない通わないはずがない。だからそうゆうおかげを頂かして下さる為には様々な働きが始まる。その働きをしだごだにしておいてからおかげになるはずがない。そのおかげが、そうゆう意味で成就した時におかげだけでない、徳になっているのです。これが素晴らしいでしょうが。為にはどうでひとつ信行一致のおかげを頂かねばなりません。
そして分からない事は聞かなければなりません。何遍も繰り返して、そしてその事を信行一致、その事がです、楽しみな信心、間違いのない願いというものが立てられたらです、願いをかなえて下さる為に、神の働きが始まる。その働きがおかげを受けるだけでなく、その働きがです、本当に有難く受けた、修業で受けたという事になって始めておかげにもなるのですけども、その暁には徳になっているのに気付きます。そういうおかげを頂かねばなりませんですね。
どうぞ。